Nov 14, 2011

草れ縁

一昨年の秋、ホームセンターの見切品売り場でオットが一つの鉢植えに目をつけた。プラスティックの鉢も入れて、40センチほどの高さ。名札も取れていて何という植物かわからないし、わたしの目から見ると樹形もあまりよろしくない(適切な環境に置かれていなかったために姿が乱れたまま生長してしまったのではないか)のだが、オットがとても気に入ってしまったので、見切り品にしては高いなと思ったが買って帰った。たしか、1000円くらいしたと思う。

その時点では白い花状のものがたくさんついていて、一目見てトウダイグサ、ユーフォルビアの仲間だなということはわかった。花弁に見えるのは「苞(ほう)」と呼ばれる部分。ユーフォルビアの仲間にはよくある形状だ。よく知られている仲間には、クリスマスの時期になると急に引っ張りだこになるポインセチアや、寄せ植えや花壇向きのものとしては初雪草などもある。この謎の植物にも、白いポインセチアの花を直径を3センチ弱に縮小したようなものが、たくさんついていた。ウェブで検索してみると、二つくらい似た品種は見つかるのだけれども、枝ぶりや葉の形が微妙に違っているので同定には至らなかった。

朝晩冷え込むようになると、花は散り始め、冬が来る前にはマメ科植物のような小判型の葉がほとんど落ちてしまった。名前がわからないから正しい手入れの仕方もよくわからないのだが、室内で冬越しさせればいいだろうと高をくくっていた。案の定、暖かくなってきたら新芽が出始め、新しい枝が伸びて一回り大きくなった。
夏には、たくさん葉が出て元気そうだった。ずいぶんと背が伸びてしまったので買ってきたときのプラ鉢ではバランスが取れなくなって、大きめのプラ鉢に移植した。
そして、秋が来て冬が来て……。

はっと気づくと、いつの間にか葉が落ち始めていた。一度も、一つも、花を見なかった。やはり育て方を間違えたのだろうか……。それとも、うちのベランダや室内は、あまり生長に適さない環境なのだろうか。

悩みながらも、春は来て、地震や原発事故にもめげずに、この植物はすくすくと生長を続けた。そろそろまた鉢を替えないといけないほどに育ってきたが、タイミングを逸してそのままの状態で夏を迎え、葉が茂り、秋が来て……。

あれれ。
これだけ育ってきているのに、今年も一向に花芽がつかないではないか。

というあたりで、なんとなくわたしはこの植物を手放す(安楽死させて処分すること)を考え始めていた。というのも、どんどん大きくなるから、きちんと栄養をやるためには年に一度は鉢替えをしなければならない。花をつけないのはかまわないけれど、観葉植物にするにはやや葉が小さすぎる、などなど。
そこで、水やりの頻度を下げ、室内に取り込んだほうがよさそうな気温になっても外に置いたままにしてみた。一応、オットにも相談したほうがいいと思い、たずねてみた(彼は草花を見るのは好きなわりには決して世話をしてはくれないので発言権はあまり与えたくはないのだが、念のため)。

「あの鉢植え、もうそろそろ処分しようかなーと思ってるんだけど」
「えええ?」

オットは寝耳に水だったようだ。まあ、世話をしていないし、鉢替えのタイミングとかそのためにこういうものを買ってこなければとかあれを捨てなければとか、そういう雑多なことはわからないので、そのままずっと置いておけばいいと思っていたらしい。

「もう、これ以上鉢を替えて育て続けても花は咲かないみたいだし」「鉢替えするとしたら鉢を買わなきゃいけないし、土も買わなきゃいけないし、もう東京で売ってる培養土なんてどこの山の腐葉土が混じってるかわからないから怖いし」

などと理由を並べ立ててみたのだけれども、

「樹の形をしたもの(たしかにあのユーフォルビアは、そういう形はしてる)が家にあると落ち着くんだよ」

とかなんとかごねるので、とりあえず、このまま様子をみようということになった。
その数日後のこと。ベランダに出て、消極的に水断ちさせていたユーフォルビアにも水をやろうと見てみると、全然ついていないと思っていた花芽がちらほら。
そして、いまはこのように↓

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ユーフォルビアというと、いろいろな特徴があるのだが→ウィキ
わたしの一番の印象は、手折ると皮膚がかぶれるような白い乳状の樹液が出ること。そして多肉植物的な特徴を持つ品種も多いこと。何より、「多幸感」みたいな名前であること。
そんな理由から、ただの植物じゃあるめえと思っていたが、やはりそうであったか。人間の言葉がわかったとしか思えない。
まあ、見切品置き場で目が合ってしまったという縁なのだから、これからもこの草れ縁は続いていくのだろうという気がしている。

ま、まともな園芸家的思考に立ち返ってみると、たぶん去年は大事にしすぎただけなのだ。

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Oct 05, 2011

It's too late を聴きながら

2011_0925ip0029_3今年もまた叔母たちを手伝うために蓼科のほうへ行ったのだが、あいにくの雨に見舞われた。
「あいにくの雨」と書いたけれど、わたしは天気が晴れでも雨でも、あまり気にしないほうだと自分では思っている。自分が「あいにく」と思った雨でも、誰かがどこかで歓迎しているかもしれないし。
でも、叔母やそのつれあいは、長野の天気が悪いといつも、「せっかく東京から来たのに」と残念がってくれる。

以前、ある曇った秋の日に叔母たちと、茅野の駅から山に向かう車に乗っていたときのこと。道の両側が、黄金色に実った田んぼにさしかかると、叔母が言った。
「晴れていると、田んぼの黄色が空の青に映えてもっときれいなのよ」

それはわかる。でも、わたしは曇り空の下、田んぼがまったりした不透明な黄色に見えるのもそれはそれで美しいと思うのだ、とつねづね思っていることをそのまま言ったら、

「晴れてるときのほうが絶対にきれいよ!」と一蹴されてしまった(苦笑)。

まあ、こういう人はいる。青い空、黄金色の田んぼ=美しい!みたいな感覚。とりわけ叔母は長年教職・研究職にあったために反論されることに慣れておらず、このようにキッパリした口調になるわけだが、それはともかく。彼女は、わたしが苔の写真などを撮るのもまったく理解できないらしい。山に登ったら高みからの景色を楽しみ、ヤッホーと言うのがこの上なく好きらしい。登山家だった祖父の影響もあるかと思う。わたしが石がどうの、苔がどうの、などとかがみ込んでいると「何地面なんか見てるの! この雄大な景色を見なさい」などと言いたそうにする。
いや、わたしは雄大な景色が嫌いなのではないけれど。それよりもミクロコスモスに興味があるだけなんだけど。

話はまったく変わるが、昨日、キャロル・キングの"It's Too Late"の話をオットとしていた。『つづれ織り』に収録されている、この曲ね。It's Too Late

冒頭のマイナーな感じから展開していってメイジャーに行くのは、ジューイッシュっぽい感覚だよね、とわたしは言った。それまでキャロル・キングがユダヤ系かどうか考えたことなどなかったのだけれど。調べてみたら、どうもそうらしい。けれど、それは今回はそれがテーマではない。
ユダヤ民族の音楽のベースは(わたしのイメージからすると)悲しいくらいの短調なのだが、そのなかからわたしが考える短調の「悲しさ」とは違う、前向きな力強さのようなものが立ち現れてくることがある。クレズマーのなかでも、ダンス音楽にはとりわけそれを感じる。

短調だから悲しくて、長調だから陽気というのではない、何か複雑な陰影とでもいうべきものが"It's Too Late"の旋律やサウンド、また一部のユダヤ人音楽にはある。それが、曇り空の下の田んぼの色のように、わたしには感じられた。
叔母のように、ハッキリとした、おめでたいほどの明るい長調(モーツァルトとか?)を好む向きは少なくないのだろうが、そうでないものを愛でる人もたしかにいる。ただ、叔母は極端な例かもしれないが、後者の感覚を理解できない前者が日本には多いような気もする。自分の周りを見る限り。

以前にもどこかで書いたような気がするが、インドでは、結婚式のようにおめでたい席では必ず短調の曲が演奏されるという。シタールかサーランギか忘れたけれどインド音楽の楽器奏者(日本人)の方の話だった。インドの方々はおそらく短調の曲が流れるとおめでたさを感じるのだろう。
景色も色も曲調も、文化や個人によって違ったふうに感覚されるということだ。「悲しい色やね」と言ったとき、それが何色なのかも人によって違うんだろうなあ。

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Sep 17, 2011

廃墟と被災地

廃墟や見捨てられた小屋や畑が好きだ。人の手が入っていて、かつては使われていたが放置され、いまは自然がなすままに荒れたところ。長野に行くと必ず立ち寄る小さな、だが由緒ある社の近くには、一度開墾されたあと荒れ放題になった棚田らしき土地がある。小山の中腹あたり、急な坂を上っていったあたりから始まる。いつごろのものなのだろう、いまはすっかり木々に覆われて、きれいな石積みの囲いや土地が階段状に整地されているのに気づかなければ、ただの斜面の森にしか見えない。それを眺めながら横を通るとき、ああ、ここまで人が来ていたのだな。この田畑に支えられた暮らしというものがあったのだな、というやわらかい気持ちになる。
そこに「美しさ」を感じることも少なくない。見捨てられた田畑の片隅にある、朽ちかけた作業小屋。誰も使わなくなった炭焼きの出作り小屋。主のない庵の、伸び放題の笹竹などにぐさぐさにされた畳の間。廃屋のそばには、かつての住人の、生活の破片のようなものがそこここに落ちていて見入ってしまう。それらはゴミ塵あくたでありながらも、何かの、あるいは誰かの痕跡としてわたしの目を引くのだと思う。

放置されたもの、見捨てられたものに美しさを見出す気持ちは今も変わらずある。
けれど、この夏、仕事の縁で3月の震災で津波被害に遭った土地を訪れてからこの感覚が少し変わってしまった。

訪れたのは7月も末で、震災からは4ヵ月以上が経っていた。
狭い入り江で渦を巻き、15メートルの津波が寄せて返していったという海岸線を見渡すと、浜や浜に降りる緩やかな階段には巨大なコンテナがいくつか打ち上げられている。新たに削られた岸壁はまだ風化していない新鮮な色で、真夏の太陽の下、かろうじて残った樹木の緑と激しいコントラストを見せる。
15メートルの津波が集落を襲ったと聞いたあとでは、堤防の高さは空しいものに見えた。その堤防の、ほんの2,3メートル内側に、何軒もの家の基礎がむき出しになっている。なぜこんなところに住んだのか。すぐ近く、堤防の上には「避難場所」の方角とそこまでの距離を示すタイルがはられ、標識も立っている。その標識を支えるポールは、地際から30センチのところでぐにゃりと120度くらいに折れ曲がっている。おそらくその日、その避難場所も完璧に安全ではなかっただろう。

そのあたりの集落は、災害ボランティアの人たちが家々の周りの小さなゴミまで拾い集めて整地したという。どこかから流れ着いた電化製品や漁具などの瓦礫、流木といったものは見あたらず、まるでこれから造成する宅地のように見えなくもなかった。
だが、すべてが流されても残った浴槽や流し台、石造りの門、潮水をかぶって枯れかけた庭木などを見れば、何かたいへんなことが起こったということは一目瞭然だ。
地震、津波、原子力発電所の事故、という三つの災害によって被害が多様で複合的になっている今回の震災の、跡地の一つが目の前にあった。

前のり一泊で、半日現地で取材しその日のうちに東京に帰るという強行軍。さすがに写真は撮れないだろうと思って、GRDは家に置いていった。わたしはフォトジャーナリストではない。もっというと、いわゆる「ジャーナリスト」でもない。写真は単なる趣味だ。被災地の現状を撮って報告するのは仕事でもなんでもないし、そんな写真なんか撮りたいと思わなかった。
それでも、「被災地に行きましたが、こんな和めるあるいは美しい風景もありましたよ」という写真くらいは撮れるかと思い、海岸に着いたときにはiPhoneを持って車を降りた。
降りて堤防まで歩いて、ああ、写真は撮れない、と思った。すぐに車に帰りたかった(暑かったし)。

海岸にいたのはものの20分ほどだと思うが、そのときのいたたまれない、帰りたい、怖い気持ちというのはなんとも説明しにくい。天気はよかったけれど、台風が近づいていて海が荒れていたこともあり、生まれて初めて「この海にのまれて人は死ぬのだ」という恐怖を肌で感じた。実際多くの方々の命が失われ、生活の場が破壊され、その痕跡すらすぐには見つからない。津波に襲われた痕は、TVやPCやカメラのモニタの画角をはみ出して、どこまでもつづいていた。この景色をそんな狭いフォーマットで切り取ることで何が伝えられるというのだろう。(もちろん、だからそうすることが無駄だとは思わないけれども)
ボランティアの方が清掃したとはいえ、いくつかの生活道具や空きボトルが落ちていた。砂地に落ちている古い暮らしの道具なんて、前だったら好んでカメラを向けていたものだと思う。とりあえず携帯のカメラを向けてシャッターを切ってみた。けれどそれは、アリバイのように習慣のようにそうしただけで、何かが撮れるという気はまったくなかった。
(事実、東京に帰ってきてからその写真を見ると厭な気分になった。カメラを向けた対象ではなく、自分のreluctantな気分だけがそこに写っているのがわかるから。数日後に削除した――数日後というところが、なんとなく未練がましくて自分でも厭になる)

まあ、津波という災害の特殊性として、そこに落ちているものが最初からそこにあったとは限らない(むしろどこかから流れ着いたものである可能性が高い)、ということもある。自分が被写体として好んでいたものとは違うのかもしれない。
ただ、この東北行き以来、廃墟や見捨てられたものの写真を見たくない、と思うようになった。9.11のあとに「もうビルに飛行機がつっこんだり、ビルが崩壊する映像を見せないでくれ」、東日本大震災のあとに「もう津波で樹や車が流される映像を見せないでくれ」と思ったのと、近い感情だと思う。もう見たくない、痛いところに刺さるから、ということだろう。東北にいて自分自身が津波に遭ったわけではないのだけれど……。

一時的なものかもしれないけれど、そんなふうにある種の写真に対する感覚が変わってしまった。そこから逆に、写真のもつ力を感じてもいる。自分で撮った写真をウェブにあげるとき、いままでとは違う眼で選ぶようになるのかもしれない。時間が経てばまた元に戻るのだろうか。たぶん、そうはならないような気がする。廃墟を、見捨てられた畑を、いままでとは違った眼で見るようになるのだろう。人は経験したことをナシにはできないのだから。

そんなことを、この2ヵ月近く考えつつも、文章にできずにいた。プロの写真家はどう思っているのだろうと気になっていた。そんなときに、災害ボランティアとしてちょくちょく宮城の被災地で活動しておられる友人のiwayanさんに下記のサイトを教えていただき、この文章を読むことで少し踏ん切りがついたので、ひとまず文章化してみた。自分の中ではまだ生々しいことなので、これからもいろいろ変わると思うが、ともかく「ひとまず」ということで。

心に響く言葉「震災と写真家」

***
最後に、これだけは書いておきたいので蛇足ながら:
わたしは「不謹慎」ということばの使われ方が好きではない。なぜなら、「他人の批判」か「自粛・自己規制」のどちらかにしかつながらず、建設的でないから。しかも、それは「暗黙の了解」という押しつけでしかない倫理感覚?に基づいているために、その場の都合で恣意的に使われることが多い。結局、人を縛ることに大いに寄与することばというわけだ。「不謹慎」だから被災地の写真を撮るなといった言説には抵抗を感じるし、ことばの使い方が間違っていると考えている。

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Sep 10, 2010

ふたつの時間を生きる

仕事として、音楽のことを書かなくなって久しい。ここ10年くらいの間に自分をとりまく仕事の環境や、音楽と自分との関わり方がかなり変わってしまって、結果としてわたしはここに流れ着いている。

前は、no music, no lifeと思っていた。
その頃"music"と思っていたのは、レコードやCDをかけたり、ライヴに行ったり、楽器で音を出したりすること。
そういう意味では、わりと、less "music" life。ただ、less "music" life=no music lifeでもno lifeでもないというのは、わたしが元気にこうして生きていることからもわかる。
less "music" の時間も、わたしにとっては music-lessではないから。無音も音楽。
ついでに言うと、no music, no life みたいに「言い切る」ことが、前みたいに好きではなくなってしまった。これは年齢のせいかもしれない(笑)。

でも、今日は久しぶりにこのブログに書くこととして、音楽(にまつわるといってもよさそうな話)をトピックに選んでみた。

* * *

学生時代、文化人類学の本か講義で、時間が線的に流れているとする文化と円を描くように循環しているとする文化がある、ということを知って驚いた。
現代日本に生きるわたしたちは、だいたい前者の世界を生きている。未来は知り得ないし、過去は取り戻せない――というのが当たり前のこととなっている。それを疑う人はほとんどいない。でも、本当にそうなのだろうか。

興味をもって、異文化にまつわる記述をあれこれつまみ読みしてみると、そうした円環の時間をもつ文化のほうが、親しく感じられることが多かった。なぜなのだろう。わたしがいつも遅刻してしまうたちだから?
もっとも、親しく感じられるといってもそれは淡い憧れのような気持ちであって、わたし自身が円環の時間を生きるようになったわけではなかった。ここではないあそこに憧れるようなもの。
わたしはつねに、線的に流れる時間の中にいて、そこから向こうの世界を眩しく見ていたに過ぎない。

* * *

8年前、いまはもう休刊したカルチャー雑誌(?)の取材で、ディジュリドゥ奏者のGOMAさんを訪ねた。
あんまり知られていない楽器(古楽器や民族楽器など)の演奏家に会って、その楽器とのなれそめや魅力を語ってもらうという企画の一環だった。
GOMAさんは、オーストラリアに渡りバスキングなどをして腕を磨きながら、アボリジニの聖地で開かれたコンペティションで準優勝、ノン・アボリジニの演奏者として初めて受賞したという経歴の持ち主。
取材した当時は"Million Breath Orchestra"というアルバムをリリースしたばかりで、そのCDを買って彼の音楽世界に惚れ込んだので取材させてもらったのだった。

その連載では、ハンマーダルシマーからアルメニアのドゥダック、電子音まで、いろいろな楽器奏者(?)に取材した。自分でハッキリと自覚していたわけではなかったけれど、「倍音」とそれがもたらす「快感」というのが、隠しテーマだった。とりわけディジュリドゥのような管楽器は、この「快感」が演奏者の呼吸と同期している。その音楽はもちろんだけれども、GOMAさんだけでなく演奏家の方々がそれぞれの快感について語るのを聴くだけでしびれた。

* * *

GOMAさんのその後の活動も少しはフォローしていたけれど、やがて仕事の領域が少しずつ音楽とはズレてきてしまって、いつしかless musicな暮らしになっていた。
そして今年になって、大石始さんのtwitter経由で彼の現在の様子を初めて知った。
それによると、GOMAさんは昨年交通事故に遭い、その後「高次脳機能障害」と診断され活動を休止。リハビリ中に描き始め絵の個展を8月に開くとのことだった。とても会期の短い展覧会なので、絶対に見逃さないようにしようと手帳に開催日を書き留め、事故に遭ってから描き始めたというその点描画を見に出かけた。

結論から言うと、絵は、音とつながっていた。ああ、同じ人の手になるものなんだということは、すぐにわかる。リハビリ中ということもあって、たしかにその絵の中に、もがきというのか、struggleのようなものは感じられるのだけれども、そこにある「求める」強さ、希求する激しさは、彼が吹いていたディジュリドゥの音と、通じ合っている。
音楽との関わり方が変わってしまった今だからこそ、そんなふうにつながって感じられたのかもしれない。

* * *

会場では、彼の今までの作品から編まれたセレクト盤が売られていた。事故のあと、本人が選曲したのだという。家に帰ってからそれを聴いて、ああそうだったのか、という腑に落ちる気がした。
アンビエントな曲が多く、そこには「祈り」とも思えるものが流れていた。それは、当然のことながら彼が事故に遭う前に演奏・録音されたものでありながら、「現在」の彼にもしっくり合うような音楽だった。

「現在」の彼。個展会場でGOMAさんと少し話をしたのだが、彼はこれだけの大作を何枚も描きながら、それを描いたときのことはあまり思い出せないのだという。「高次脳機能障害」とはそのような症状らしい。
ただ、描いた絵がここにあるということが、彼のなかでの彼の連続性と時間の連続性を支えている。だから、これらの絵は彼の「祈り」だとも言える――特定の宗教や信仰心云々の意味ではなくて。
その「祈り」の内容ではなく、祈りの姿が、彼がかつて演奏したディジュリドゥの音にもあった。それをわたしは「つながっている」と感じたのだと思う。

CDに収められたディジュリドゥの演奏は「過去」で、点描画は「現在」。
というように、線的な時間を生きるわたしたちはどうしても考えてしまう。でも――と、わたしはなぜか立ち止まってしまうのだ。
もし、時間が円を描いて循環しているものだとしたら……?
彼はこの点描画に描かれた祈りを、事故に遭う前、ディジュリドゥに吹き込んでいたと言えるのではないだろうか。

彼の個展のタイトルは「記憶」だけれども、もし時間が円環を描くのであれば、記憶は過去にもあるし、未来にもあると言えるだろう。未来の記憶を「予言」と呼ぶこともできるのだろうが、線的な時間を生きるわたしたちはそれをもしかしたら「希望」と呼んでいるのかもしれない。

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«川沿いの家